NPO法人 川崎市視覚障害者福祉協会

【視障協の歩み(70年史より)】

活動の記録 創立70周年記念座談会

「これまでの経過を顧みて思うこと、今後の課題について」
2017年8月27日(北身館にて)
1 始めに
昭和23年に8名で発足した本会は今年で70周年を迎えます。この区切りの年に当たって、これまでの活動を振り返るとともに、今後の活動を考える機会になればと、座談会を企画しました。参加者はこれまで長い間役員として活躍していらっしゃった方々です。様々な観点からこれまでの活動を振り返り、いろいろお話をうかがいました。まとめと司会は酒井栄蔵です。
2 参加者のプロフィール
高橋吉四郎さん、現会長
平成14年に大倉さんから会長を引き継いで8期15年目となります。それまでは3期副会長を務めました。その前は当時の高津支部副支部長として5期10年務めました。入会したのは昭和47年で、平塚盲学校への入学と同じ年でした。 しかし学生時代はあまり会活動には参加しませんでした。今回の参加者の中では一番入会が遅いことになります。
菊池笑子さん、元副会長、婦人部長など。
入会は昭和46年でした。この年はまだ多摩支部がなく、川崎全体が一つの会でした。各支部が出来たのは翌年からです。昭和47年にいきなり婦人部長になりました。そして5期10年務めました。その後は庶務部長・副会長にもなりました。現在は役を降りています。
小嶋光之さん、現 中原支部長。
昭和40年に平塚盲学校を卒業し、42年に入会しました。最初は青年部の副部長をやりました。その後青年部長、庶務部副部長・部長、副会長などを2期経験しています。平成6年から中原支部長を続けています。
望月 幸雄さん
盲学校を卒業したのは昭和38年で、39年に入会しました。事業部の副部長を2期やりました。昭和60年に視障協だよりの発行が始まりましたが、その時から広報編集委員長を長い間務めてきました。
関山 進さん、現副会長。
昭和46年に入会しました。青年部副部長を経て、昭和62年からずっと副会長を務めています。
田村千恵子さん、元婦人部長。
入会は昭和34年でしたが当初は子育てに忙しかったり、家の都合なども在ってあまり会の活動に参加できませんでした。昭和52年に婦人部長を菊池さんから引き継ぎました。中原では副支部長を長い間務めました。
3 さまざまな思い出
(1)会員数や年齢構成、会の名称など
菊池
視障協は昭和23年に8人で発足したとのことですが、私が入った昭和46年には会員数が303人でした。
高橋
私が会長になった平成14年には150名でした。今年は140名ですが、毎年増減があるものの、ほとんど会員数は減っていません。少し前の大蔵会長のときは200名だったでしょうか。
菊池
今は北部の麻生区や多摩区の会員が多いようですが、昔は南部の会員が多く、川崎区が34名、幸区が28名でした。
小島
中原では45名だったときもあります。会員の高齢化が進んでいると思われますが、入っている人はどんどん年を重ねていくけれども若い人が入ってこないという現象があります。今は70歳代と80歳代の人数がおおいのではないでしょうか。
高橋
昔は盲学校を卒業すると先輩からの声掛けで入会する人も多くありました。今は盲学校の生徒も減少してきているので、若い人が入ってこないのではないでしょうか。
関山
しかし、卓球をきっかけに今年高校2年の女性が入会しました。それから視覚障害者のためのデイサービス「かみふうせん」に通うのをきっかけに入会してきている人も増えてきています。
高橋
会の名称もいろいろ変わりました。昭和23年の発会当初は「川崎市盲人会」と言っていました。40年には「川崎市盲人福祉協会」46年には「川崎市視力障害者福祉協会」そして平成21年に「特定非営利活動法人川崎市視覚障害者福祉協会」と名称変更してきています。
NPOになってからは名称だけでなく活動内容と団体の性格も大きく変わってきたわけです。NPOの認証はなんといっても大きな飛躍だったのではないでしょうか。
関山
全国的にも「視力」から「視覚」に名称変更した会も多くありました。川崎は「視覚」の名称を取り入れたのは遅いほうです。「視覚」ということであれば色弱者や視野の狭い方など広い意味での見え方の障害を含むからです。
小嶋
昭和47年に政令指定都市になったことや、56年の年の「国際障害者年」などの社会的な動きとも関係してきたのではないでしょうか。
(2)三療のこと
小嶋
昔は三療業を営んでいる人が多くいました。 しかしだんだん減ってきています。昔、柳沢さんという会長は業界と視障協の会長の両方をやっていました。
関山
業界も、視覚障害者が立ち上げたようなものです。技術を磨いて生活を豊かにしたいという人が多かったものです。業界は今は目の見える方が中心となってしまっています。そこで健康教室などの事業を市から委託されて行なうようになったわけです。でも施術者が高齢化し動ける方が少なくなってきて、これからどのように続けていくか難しい問題です。
(3)点字の使用のこと
小嶋
点字競技会も歴史があり、昭和30年に神奈川県大会を川崎で行い、これをきっかけに毎年点字の会をおこなうようになりました。
望月
点字離れが言われる昨今ですから、点字大会を行なうことは大切なことではないでしょうか。神奈川県でもいつの間にか止めてしまったし、国レベルでも行っていないのではないでしょうか。
小嶋
目の字リレーには各支部だいぶ力を入れてやっていますので続けてほしいですね。
望月
点字の出版物についても、以前「JBニュース」という日刊紙があり、川身協で印刷して配布していました。そのように毎日点字で読むものがあったらよいのですが、残念ながら休刊してしまいました。
関山
法人化されているところでないと予算がつかないということだったと思います。
望月
川崎市からの郵便物には点字で内容を示す点字が付いていますが、区からのものにはつけられていません。もっと多く点字を使用してもらいたいですね。

(写真)点字競技会 課題文を制限時間内にどこまで点字で書けるかを競う競技

(4)「盲女性家庭生活訓練」のこと
菊池
女性部の活動は昔よりも現在のほうがどんどん活発になってきていると思います。昭和47年に家庭生活訓練事業が始まり、27万円の援助がありました。しだいに補助が増えて今は40万円でしょうか。視障協の活動の中では一番予算も多く活発に活動が続いていると思います。
田村
「家庭生活訓練」というのは家庭生活を営む上での生活技術を身に着けることが目的でした。ですから18歳から50歳までが対象でした。今とは参加者がずいぶん違っていますね。何しろ皆な若かったですよ。私が部長をしていたときは、婦人部の全国大会にも参加し、静岡や広島、北海道や沖縄までいろいろな県に出かけ、座長なども何回も経験しました。
(5)視障協だよりの発行の思い出
望月
「視障協だより」は昭和60年に発刊しました。毎月の発行では大変だということで隔月の発行としました。最初は北身館(北部身体障害者福祉会館)で作業していましたが63年からは、中身館(中部身体障害者福祉会館)に移りました。中身館は、倉庫も借りることができ、また部屋も比較的空いていたからです。
小嶋
編集委員と広報委員がいて、広報委員はテープの整理をしたりコピーしたり、また出来たものを郵袋につめて郵便局までリュックで運んだり大変でした。編集委員会が隔月にあって、作業日があって、またテープ整理日もありました。編集は私と望月さんが交代で各自の自宅で行ないました。徹夜になったこともあります。
望月
最初は北身館で直接録音をしました。
菊池
ナレーションのほかに時事暦も読みました。みんなのいる前で読むのですから緊張し大変でした。 40何号まで私がやりました。
関山
そのうち録音は自宅で行い、それを編集するようになったわけです。
望月
イベントなどの様子を録音してみんなに聴いてもらうのは私の仕事でした。ダビングについても、一度に3本コピーできるものが1台しかなくて、90分テープを250本コピーするのですから朝から晩までかかりました。
高橋
視障協だよりの100号を発行するときに、会員の西井さんから100万円の寄付をいただいてコピー機を買うことができました。これでだいぶ効率が上がりましたね。今もそれを使わせてもらっています。
(6) 1泊旅行の思い出
小島
会員全体が交流することを目的に、1泊研修旅行が始まりました。
菊池
最初は歩行訓練を兼ねた旅行でした。歩行訓練には市からの補助があり、その補助を利用して1泊旅行を行なっていたわけです。今は福祉バスの無料提供があるばかりです。
望月
最高で28万の補助がありました。バス2台で企画したこともあります。
小島
今は1泊旅行というとバスを利用していますが、その前は電車で行っていました。たいへんだったんですよ。車内で大声で西井さんが「降りるぞ」などと大きな声で指示していたことを今でもそのときの恥ずかしい気持ちが思い出されます。昔は元気良く楽しかったですよ。
関山
旅行中、心筋梗塞で倒れたり、低血糖で倒れた人もいましたね。でも大きな事故とならずよかったと思います。
(7)研修会のこと
小嶋
視障協では市内に保養所を作ってもらうよう市へ要望していました。平成元年に麻生区に授産学園と共に保養所のつつじ山荘がオープンしました。最初の頃はそこに泊り込みで研修会をよく行ないました。
菊池
市の方においでいただいて講演会で研修をしたり、夜は交流会を行ないました。楽しかったですね。あのころは。
小嶋
私は何回か司会を勤めました。できて最初のころはよく使いました。
高橋
でもあそこは夕食が6時で終わったり、布団も自分で上げ下ろししなけれぱならないなど使勝手があまりよくありませんでした。それに市内でもちょっと遠かったこともあり、しだいに使わなくなりました。
(8)グランドソフトボール(盲人野球)のこと
関山
昔は盲学校で野球が盛んでした。その延長で卒業しても幸区の学校のグランドを使わせてもらって練習をしていました。鳥取の全国大会にもバスでいったことがあります。平成元年には関東ブロツク川崎大会があって優勝しました。長谷川さんという方が熱心で、長いこと監督を務めてくれていました。懐かしいですね。
(写真)第19回関東ブロック盲社会人球技大会 富士見球場にて
(9)同行援護のこと
小嶋
最初は視障協が委託を受けてガイドヘルパー事業を行なっていました。その後川身協に委託されました。予算も1億近くなっていました。使いすぎなどいろいろ問題があって、行き先からの証明をもらわなけれぱならないなど全国的にもまれな仕組みになったこともありました。
高橋
その不自由な時期が一番辛い時期でした。やがて支援費制度が始まり、視障協会員有志で外出支援センターを立ち上げることになりました。しかし、川崎市は視障協の活動と支援センターを同一のものと見ていて、なかなか私たちのセンターの自主運営について理解してもらえませんでした。はっきり組織がことなるのにも関わらず、同一の組織に見られ辛い思いをしました。
小嶋
内容的にも支給時間が短かったり、バスに乗っている時間は認められないなど、いろいろ不自由がありました。そのときに外出支援センターを立ち上げていてよかったと思います。
(10)日盲連関東ブロックの活動など
高橋
平成20年に関東ブロック川崎大会を溝の口の神奈川サイエンスパークで行ないました。この準備と当日の運営はとても大変でした。でも約500名の方々に参加いただき、とても盛大に催すことができました。川崎には多くの方が集まって会合する場所や宿泊する場所がなくて、それまでは箱根や三浦市でおこなっていました。平成31年にはまた関東ブロック大会の順番が回ってきます。
小嶋
その他STTの関東ブロック大会など上部団体との事業を行なうのもー苦労です。
4 これからの視障協の課題について
高橋
まずは、視障協を広く周知し、会員を増やすことでしょうか。そのーつの手段として視障協の勧誘のパンフレットを行政の窓口に置いてもらっています。福祉に携わる行政の方に視障協をよく理解してもらって視障協が市民にとって魅力のある会であることを知ってもらう必要があると思います。同時に同行援護者やデイサービス事業者にも理解をもっと広めて、視障協のことを紹介していってもらいたいですね。中途失明者が増えてきているので、そのような人たちにもつと積極的に声を掛けて行きたいものです。
菊池
在勤在学者にも会員になってもらったらどうでしょうか。そうすれば少しは会員がふえるのではないでしょうか。
関山
会員が高齢化していて、事業に参加しにくくなっているのも確かなことです。各支部で身近な活動をさらに増やしていけたらと思います。今年、私の所属する多摩支部と麻生支部で合同のバスハイクを行ないました。また高津支部と宮前支部でも合同行事を行なうと聞いています。各地域で協力し合って行事を盛り上げて生きたいものです。
高橋
役員になり手が少なくて、今は役員の平均年齢は70歳ぐらいと高齢化しています。もっと若い人に役員になってもらって、若い人が参加しやすい事業を行なっていけたらと思います。
菊池
高齢者が多いのですから高齢者に魅力のある活動を増やしていったらいかがでしょうか。たとえば民謡教室などどうでしょうか。
高橋
私が一番心配なのは健康教室です。資格保有者が少なくなっていてまた高齢者が多くなり、現状でも健康教室を続けていくのが大変です。今後この事業をどう進めていくのか真剣に考えなければなりません。
田村
会員数や参加者を増やしていくにはなんといっても様々な情報を会員とその周辺の方々に提供していくことが必要ではないでしょうか。情報を知ることで興味を持ってくれる人が少しでも増えていったらと思います。それから、何しろ活動を続けていくことが大切です。昔は福祉のサービスが何も無い時代から会が始まったわけです。私が会に入ったときには鉄道の割引券も月に僅かな枚数しかもらえませんでした。それが視障協の熱心な活動の結果これまで福祉のサービスが充実してきたわけです。ですからそれぞれの生活を省みて必要な要望を出し続けていくことが大切だと思います。
[編集に当たって]
何十年も役員として活躍していらっしゃった方々にとっては、まだまだ話し足りないことが多くあったことかと存じます。また司会者が視障協の活動について経験が浅くまた力量不足のため、話しから有用な情報を聞き出すことが足りなかったかも知れません。この座談会が会の将来を考えていくきっかけになれば幸いです。(酒井)

活動の記録 創立70周年記念座談会 終わり