地域の歴史

むかしの矢上川について地域の方々にお話を伺いました

◎鶴見川で思い出すこと:新堀 安一さん  ◎昔々の矢上川のおはなし:仁藤 悦男さん  ◎板橋供養塔:赤松さん


鶴見川で思い出すこと ―私が子どもだった昭和10年代の頃―
辻町内会 新堀 安一

鶴見川は、今でこそ川巾が100メートルくらいはありそうな大河ですが、私が子どもの頃の昭和10年代は、辻のあたりで30メートルあるかないか、川底も浅い急流でした。ですから思い出すことはどうしても川のせまさと浅さにつながってきます。

その1 石ゲンカのこと

まず思い出すのは石ゲンカです。集団で石を投げ合うケンカで、相手は対岸の駒岡の子ど も達でした。石ゲンカの歴史は非常に古く、その原因は両岸の堤防がなかった時代にさかのぼるという話です。洪水で溢れた鶴見川の水が辻か駒岡か、どちらに大量に流れたかをめぐって、両岸の住民はにらみ合ってきました。自領に多く流れれば、対岸の治水が悪い、自分たちの死活にかかわる大問題だというわけです。鶴見川は暴れ川でしたから洪水はしょっちゅうでした。にらみ合いは堤防が出来る大正6(1917)年まで、延々とつづいてきて、それが子ども達の世界にも及んでいたのでした。私の叔父は明治末に少年時代を過ごした人です。「オレたちもよく石ゲンカをした。ある日、親の言いつけで駒岡に行かされたんだけど、どんな目に会うか分かんないし、あの時はホントにおっかなかった」と話していたのを憶えています。私が子どもの頃の石ゲンカは、たとえばこんな風でした。辻の子ども達はよく、川岸の沼地にいるシジミをみんなで取ったものでした。貧しい家が多かったので、食事のおかずにするためです。それを見て、駒岡の子ども達が大声でからかう。すると辻の子ども達も黙ってはいない。すぐさま石集めにかかります。駒岡の子ども達も同じです。昔はどこもかしこも砂利道でしたから、石ころは無数にありました。けれども、お互い思いっきり投げるし、川巾がせまいから、けっこう相手に届く。それをよけながらの投げ合いなので、かなり危険でした。先日、昔のケンカ仲間だった男が、こんなことを言っていました。「こっちの石があっちのヤツの頭かどこかに当たったんで、こっちの親があわてて謝りに行ったことがあったんだ」。鷹野大橋ができたのはずっとあとで、駒岡へ行くにはいまの鷹野人道橋の少し上流にあった鷹野橋か、ずっと下流の末吉橋(どっちも木造だった)を渡るしかありません。私は、謝りに行った親はきっと鷹野橋を渡ったんだと思う。なぜなら、子ども心に鷹野橋はすぐ近くで、末吉橋はずいぶん遠くだなあ、と感じていましたから。

その2 桃ドロボーのこと

駒岡の川岸には桃畑があり、思い出の中の桃畑は美しく熟した桃で溢れていました。夏のはじめ、辻の悪童たちは、それを目がけて鶴見川に飛び込みました。辻という村は、土手と川の間に田んぼと畑と沼地が広がり、今のポンプ場のあたりには小さな林があって、甲虫(かぶとむし)がいました。けれどもそれだけで、桃畑なんかありません。甲虫を捕まえて遊ぶよりも、今は盗んででも桃を食いたい!上げ潮から引き潮に変わるとき、流れが穏やかになります。そこを狙って泳ぎ渡り、すばやく桃を盗むと、すかさずとって返す。現地で呑気に食っているひまなどありません。私も仲間も、駒岡のこわいおじさんに捕まったことはなかったけれど、ただ、かんじんの桃の味がどうしても思い出せません。味についていえば、畑のトマトを盗み食いしたことがあり、今のトマトとは全然ちがう青くさかった味が舌の記憶に残っていますが、駒岡の桃の味も思い出せないだけで、今の桃の甘さとは全くちがった味だったのかもしれません。それにしても、盗み食いをずいぶんやっていますね。書いていて呆れます。

その3 こやし舟のこと

辻はほとんどが農家でした。大工、左官を家業とする人がいたので“職人の村”として江戸に聞こえていましたが、彼らも農業を兼ねていました。農業に欠かせないのは肥料です。当時の肥料はほとんどが人糞でした。しばらくはくさい話ですが、ご容赦を。人糞は、専門の船頭が川下の鶴見、菅沢あたりで集め、舟にたっぷり入れて、舟着場へ運んできます。舟着場は今の鷹野大橋の下あたりにありました、船頭は、川下の家々から糞の始末料を受け取って稼ぎ、川上の農家に売って稼ぐ。クソもうけとはこのことであります。わが家も小規模ながら田畑を持っていましたので、リヤカーに肥たごを乗せ、舟着場から肥溜(こえだめ)へ人糞を運ばなくてはなりません。ところが難所が一か所ありました。舟と舟着場をつなぐのが、巾わずか50センチほどのせまい板だったのです。専業農家のおじさんは、満杯の肥たごを天秤で前後にかつぎ、拍子をとりながらいとも軽々と渡ります。それを見て私も、16才くらいにはなっていたので、なんとなくやれそうだと挑戦したのですが・・・。ずしりと右肩に重みがきた。そこでやめておけばよかったのに、こらえてかつぎ上げ、ふらつきながら板にさしかかりました。ここで大事なのは、板のしなりと肥たごをかついだ自分の重さとのバランスをとることです。板が下にしなれば自分も沈む。しなりが戻れば自分も浮く。ところが板の半ばで、それが逆になったからたまらない。肥たごもろとも川の中へドボーン。「おめえには、ちっと早えんだよな」おじさんたちが、あわてて助けてくれました。

その4 土左衛門のこと

今の水門から150メートルほど上流の鶴見川は、川底が極めて浅く、引き潮になると岩盤(土地の人はガラと呼んでいた)が不気味な姿を現して流れをさえぎり、川巾もさらにせまくなりました。人が渡れたこともあります。こんな時は舟は通れません。その代わりといってはおかしいのですが、時おり上流から漂ってきてガラにひっかかったのが土左衛門、すなわち水死体でした。水死体は水をたっぷり飲んでいるから、体がぶくぶくにふくれています。その姿が成瀬川土左衛門という力士の太り方にそっくりだったので、水死体のことを土左衛門というのだそうですが、それはさておいて、土左衛門が見つかると辻は大さわぎになりました。とりわけガラに近い辻の東(岩瀬と呼んでいた)に住む人たちは、総出で引き上げ作業に加わり、ねんごろに弔いました。このとき、現場にかけつける大人たちが口々に怒鳴ったのは「子どもは来るな!」でした。今にして思えば、あれは醜いものを見せたくない親心だったのでしょう。ちょうどガラのあったあたりの堤防の内側下に、いま『無縁法界萬霊』と刻まれた、無縁仏となった土左衛門を弔う石碑が建っています。建立時は堤防の外にありました。石碑の側面には、新堀清吉という船頭が発起人になって大正10年に建立したと彫られています。平成18年8月20日、この場所で辻生産組合主宰の法要が営まれました。何十年ぶりかのことです。生産組合というのは昔の農家の集まりで、そういえば土左衛門が漂着したとき、「子どもは来るな!」と怒鳴りながら現場にかけつけたのは、法要参加者の親たちでした。石碑の前を通ると、いつも何かが供えられています。それを見るたびに、私は辻の歴史が息づいているのを感じます。《おわり》


昔々の矢上川のおはなし(仁藤さんにぜひにとお願いし、昔の矢上川の思い出を寄稿していただきました)
仁藤 悦男(日吉郷土史会 会長)

歴史をさかのぼって江戸~明治~昭和の初めの頃、そのころのこのあたりは、橘樹郡日吉村字南加瀬という地名の農村地帯でした。米・麦などの穀物を主として、朝に影向寺の鐘の音を合図に野良仕事に出ていき、夕べにはその鐘の音を聞きながら我が家に戻る、こうして加瀬村の人々はいっしょうけんめい野良仕事に精を出し身を粉にして働き、郡内でも一番の石高をあげていたと聞いています。

そのことは、加瀬村の山から出土した、国宝に指定されている「秋草紋壺」そして「白山古墳」(加瀬村にいたといわれる豪族の墓)などから推測しても、昔からいかに石高が高かったかうかがえます。その頃の矢上川は、今の越路から江川地区にかけて、ちょうど蛇のようにくねくねと曲がりくねった川だったそうです。ですから、大雨があるとたびたび氾濫して、米の生産が不作になったと聞きます。農作物の生産には水は必要なものなのですが、その昔の農家の方々の苦労がうかがえます。大正時代に入り、今に見られるような土手が築かれたと聞きます。それでも暴れ川といわれた「鶴見川」の支流でしたので、何度か土手が決壊して大水の被害があったと聞きます。

さて、矢上川にかかっている近くの橋のその昔についてお話をしましょう。(写真は現在の橋の様子)

写真橋の名前説明
矢上橋北加瀬の方から木製の橋を渡っていくとその右側に木造2階建ての「日吉村役場」があった。日吉村というのは、南加瀬・北加瀬・小倉・鹿島田と今の港北区矢上・箕輪・駒林・駒ヶ橋の8部落より成り立っていました。私たちはその役場でホウソウの接種を受けました。
八兵衛橋木の橋で踏み板が所々腐って穴があいている、うまく渡っていかないと落ちてしまう、そんな思い出があります。
一本橋その頃は、確か丸太が2本の橋でした。父に連れられて、矢上の親戚に行くとき怖くて一人で渡れず、父の後ろに回り父のバンドにつかまって渡った、そんな橋でした。
矢上川橋この橋も木製で、欄干が低く端には寄っていけず、八兵衛橋と同様にあちこち穴が開いていて、渡るのに一番怖かった思い出があります。その頃の矢上川の水位は高くてなみなみと流れていたので、橋の上から下の水面を見るのが、子どもの頃は怖かった思い出があります。

八兵衛橋の近くで、大きなツルベ式の四手網で魚を捕っている人がいて、そこに遊びに行くと、フナなどを草の茎に刺して「それ、やんから、もっていけ」といわれ、よく貰いそれを得意げにぶら下げて野の道を家路に急ぎました。

夕日が 西の山に沈みかけ 富士山の姿がくっきりと浮かび出てくる。

そんな情景が今でも思い出に残っています。


板橋供養塔
赤松さん

むかしから矢上橋は架け換えの時、その費用を矢上村はもちろん近郷や隣村から浄財を受け建設されてきました。 むかし、橋のたもとに「奪衣婆」(亡者)がいて「夜ここを通る人の着物をはぎ取る」という言い伝えがありました。そのための供養と橋の安泰を願い、併せて寄付者の名を刻み、その証しとしてこの塔を建立されました。

この供養塔は、もと矢上橋のたもとにあったもので、寄付者の名から天保(1830)の頃のものとおもわれます。